本多忠勝ってすごく強かった人って聞いたことあるけど、どんな人だったの?
今回は2023年大河ドラマ【どうする家康】で山田裕貴さん演ずる本多忠勝について簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。
【チーム家康、出演者発表!】
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) April 15, 2022
「ただ勝つ」と名付けられた最強サムライ
本多忠勝:#山田裕貴
生涯戦うこと57回、かすり傷一つも負わないといわれる戦国最強武将のひとり。男気があり義を重んじ、筋の通らないことは大嫌い。女性にはものすごい奥手。#どうする家康 pic.twitter.com/tcWJKUV8CG
どうする山田裕貴
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) May 11, 2022
・台本を読んで面白いと思ったところは?
・松本さん演じる“殿”に一言!#山田裕貴 #本多忠勝 #どうする家康 pic.twitter.com/tTBhRCQ31b
徳川家康が関連するドラマには必ずと言っていいほど登場する人物です。しっかり頭の中に置いて【どうする家康】を楽しんでくださいね。
- 外山 高士 1965年『太閤記』
- 倉島 襄 1973年『国盗り物語』
- 高岡 健二 1983年『徳川家康』
- 古瀬 公則 1988年『武田信玄』
- 平泉 成 1989年『春日局』
- 宍戸 錠 2000年『葵 徳川三代』
- 近童 弐吉 2002年『利家とまつ ~加賀百万石物語~』
- 高田 延彦 2006年『功名が辻』
- 苅谷 俊介 2011年『江~姫たちの戦国~』
- 塩野谷 正幸 2014年『軍師官兵衛』
- 藤岡 弘、 2016年『真田丸』
- 髙嶋 政宏 2017年『おんな城主 直虎』
放送前に読んでおきたい1冊
本多忠勝ってどんな人?
徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑の一人
本多忠勝は、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川四天王と言わた人です。
徳川十六神将の一人でもあり、榊原康政、井伊直政とともに特に武勇に優れた徳川三傑としても有名なんだよ。
他の徳川四天王についての解説記事です。
酒井忠次ってどんな人?簡単解説~徳川四天王の筆頭です
榊原康政ってどんな人?簡単解説~豊臣秀吉に首十万石をかけられた男
井伊直政ってどんな人?簡単解説~赤備えのイケメン武将
生まれ
1548年3月、松平家(徳川本家)の最古参の家臣本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(現:愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれました。
しかし、翌年1549年に父忠高は安城合戦で戦死してしまうのです。
まだ幼いのに父上を亡くしたら、生きていくのが大変だっただろうね。
父を亡くしたあとは、叔父の本多忠真に母子ともに引き取られたんだ。そこで読み書きや武士としての心得を学んだので、その後の忠勝があるのは叔父の影響も多大だったんじゃないかな。
こうして本多忠勝は幼いころから家康に仕えていくのでした。
桶狭間の戦い
幼い頃から家康(松本潤)に仕えていた忠勝は、今川の人質となった家康とともに桶狭間の戦いで初陣を果たします。
この時忠勝は13歳。危うく命を落としそうになったところを叔父の忠真に助けられています。
徳川最強の武将と言われた忠勝も、初陣は華々しくかざることができなかったんだね。
今川義元(野村萬斎)の死を知ると、家康は家臣ともども岡崎城への帰還を決意します。
落ち武者狩りが潜む中、忠勝もともに命からがら岡崎城へ戻るのでした。
三河一向一揆
1963年の三河一向一揆では多くの本多勢が敵となる中、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗してまでも徳川のために戦い武功をあげたのです。
なんという忠誠心!
酒井忠次もそうだけど、一族より自分が使える殿のほうが大事なんだね。きっと彼らは幼い時に父を亡くしてるから、幼少の頃から仕えていた家康がすべてだったんだろうね。
それからも数々の武功をあげ、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍したのでした。
姉川の戦い
1570年の姉川の戦いでは朝倉軍一万に対して、無謀とも言える単騎駆けを行います。
この時、朝倉軍の豪傑ファイター真柄直隆と一騎討ちをして戦いは互角だったものの、忠勝の武名をあげるエピソードとなってます。
一言坂の戦い
1572年10月、遠江国二俣城をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦いです。
本多忠勝は偵察隊として先行するものの、武田本軍と遭遇します。
武田本軍は戦国一の騎馬隊を有する猛者たち。
撤退するが武田軍に追撃されてしまうのです。
本多忠勝はこの時、殿(しんがり)を努め、家康本隊を無事に浜松城へ撤退させることに貢献したのです。
敵の武将、小杉左近は「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」という歌を詠んでいます。これも本多忠勝の強さを物語るエピソードです。
「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」
家康が持っている兜と、彼の家臣の本多忠勝は、本当に素晴らしいと賞賛する内容の狂歌です。
三方ヶ原の戦い、長篠の戦い
三方ヶ原の戦いや長篠の戦いでも忠勝は活躍し続け、敵味方問わず賞賛されていきます。
敵将にも賞賛されるなんてよっぽど強かったんだね。
家康は「まことに我が家の良将なり」と激賞し、家康のいるところには必ず忠勝がいるようになったのです。いわば、ボディーガードのようなものです。
「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝のことを詠んだ川柳もあるほどです。
「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」
蜻蛉とは、忠勝の得物である名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」。以前、この槍を立てておいたところ、その先端にとまった蜻蛉が鋭さのあまり自分の体重で切れてしまったという逸話から出たもののようです。頭には鹿の角を生やした兜(鹿角脇立兜)をかぶった凄まじい姿で、鬼か人間か、確かなことはわからないという意味になります。
本能寺の変~伊賀越え
1582年、本能寺の変で織田信長(岡田准一)が明智光秀の謀反で討たれた時、家康は堺に滞在していました。
信長の招きで少数のものを携えて、いわば遊んでいたんです。
そこへ信長の死の報せ。同盟を組んでいた家康の身も危うくなるのは必至だね。
ろくに武器も携えていない家康が、信長の後を追おうと自害しようとするのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を決意させたと言われています。
帰路の途中の木津川で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだそうです。
本多忠勝ら家臣の賢明な働きで家康は生き延びることができたんだね。
小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦いでは徳川軍は、豊臣16万の大軍の前に苦戦を強いられます。
忠勝は当初留守を任されていたのですが、劣勢を聞きわずか500の兵を率いて駆け付けたのです。
わずか500m先で豊臣の大軍に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせた姿を見て豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去ったと言われてます。
こういう豪胆な振る舞いが、豊臣秀吉(ムロツヨシ)からも東国一の勇士と賞賛されたんだね。
関ヶ原の戦いから最期
1600年の関ケ原の戦いで、忠勝は東海道方面の東軍の軍目付として小姓の者400名余を引き連れて参戦しています。
この戦で忠勝ははじめ家康の本陣近くで作戦に参画していたのですが、戦況が東軍に不利となるや自ら前線に赴いて全軍の進退を指揮し始めたのです。
また、自らの兵とともに獅子奮迅の働きをし、90にも及ぶ首級をあげたんだ。東軍の福島正則が合戦後に、忠勝の用兵の妙を絶賛したことが伝えられているよ。
これらの功績によって、翌年1601年には、上総国大多喜城から伊勢国桑名(現:三重県桑名市)10万石に移されます。
家康はさらに5万石を与えようとしたけど、忠勝はこれを固辞し、忠勝の次男に与えられることになったとされています。
家康がどんだけ忠勝を信頼していたのかがわかる話だね。
家康が江戸幕府を開いた翌年より、忠勝は病がちになり、さらに眼の病にも侵され幕府の中枢を離れるようになります。
その後1609年、本多家の家督を息子の本多忠政に譲ったのち隠居。翌1610年、本多忠勝は63歳で死去するのでした。
本多忠勝ってどんな人? まとめ
今回は2023年大河ドラマ【どうする家康】で山田裕貴さん演ずる本多忠勝について簡単に解説しました。
生涯で57回もの戦闘に参加して、傷1つ負ったことがないと言われる戦国最強武将の1人です。
勇猛果敢な本多忠勝の一生を、山田裕貴さんの若さでパワフルに演じていただけたらと楽しみにしています。
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