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【どうする家康】BS関連番組『どうする松本潤』~ピンチの時の家康の選択は?

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3月26日に【どうする家康】の関連番組としてBSプレミアムで【どうする松本潤】が放送されました。

そこでは家康の人生における3つのピンチを切り取って、松本潤さんに体験していただき、家康はどう行動したのかを考えてもらう番組でした。

数々のピンチをくぐり抜けてきた家康が、どういう選択をしてきたのか大変興味深いものとなっています。

今日はその内容を紹介していきたいと思います。

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目次

桶狭間の戦い

『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)
出典 Wikipedia 『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)

今川の人質として育った竹千代

松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として1543年に三河の岡崎城で誕生した竹千代(幼名)であったが、8歳の時に今川氏へ人質として送られることになります。(この前に家臣の裏切りに会い、織田方へ送られてしまいますが、人質交換という形で今川へ引き取られるという、幼少期から波乱万丈の運命を感じさせるエピソードです。)

今川義元野村萬斎)の元で育ちここで1555年に元服をし名も松平元信と改めます。

今川義元の元をとって名付けられたんだね。このことから義元との関係は良かったことがうかがえます。

その後、今川義元の姪である瀬奈(築山殿)有村架純)をめとり名も松平元康となります。

今川義元は竹千代をたいそうかわいがり、幼少のころから武芸や作法を教え込んでいたというのが通説です。

桶狭間の戦いー元康19歳

元康19歳の時に織田信長岡田准一)の名を一躍有名にさせた桶狭間の戦いが起こります。

上洛のため2万の兵を率いて今川義元が駿府を出立します。

元康は先鋒として、敵に囲まれた大高城に米を運びこむという任務を任されるのです。

しかし、わずか2千の兵の織田勢に大将義元が討ち取られてしまうという思いもよらない事態となってしまいました。

大将を討ち取られた元康ーこのピンチどう切り抜ける?

自分がいた大高城からは桶狭間の様子はまったく見えません。

今川義元が討ち取られたという報せだけが入ってきます。

自分の目で確かめられない中、元康のとった行動はどれだったでしょうか。

  1. すぐに出撃して戦う
  2. 籠城して守りを固める
  3. 何もしない
なおらん

ここで松本潤さんは消去法で❸を選択しました。

正解は❸です。

元康は何をしていいのかわからなくて、まずは情報を集めたようです。

そしてふるさとの岡崎へ帰り独立することになりました。

岡崎城へ逃げ切るまで

今川家からの逃亡をはかり、夜道を疾走していく中、数百人いた家来がどんどん脱落していきます。残ったのはごく少数の家人です。

逃亡中に1番恐れていたのは落ち武者狩り

最短距離を通ったのでは敵が待ち伏せしているかもしれません。

そこで元康は大きく迂回をし矢作川を渡り、すぐに岡崎城へ行くのではなく、まず大樹寺に入ります。

岡崎城にいる家臣たちが歓迎してくれるかどうか疑心暗鬼になってたみたいだね。

大樹寺は先祖の墓がある寺です。



しかし、ここも敵に囲まれ絶体絶命のピンチを迎えてしまうのです。

いよいよ最後かと思った元康は先祖の墓の前で自害しようとします。

ここで住職の言葉が思いとどませることとなります。

住職の言葉

厭離穢土(おんりえど)…乱れた世の中
欣求浄土(ごんぐじょうど)…安心に暮らせる世の中

厭離穢土欣求浄土とは「乱れたこの世を厭い離れたいと願い、心から安心で平和な極楽浄土のような世の中をこい願う」という意味です。

この言葉を聞いた元康は、これを戦の時の旗印にして生涯の目標とするのでした。

結局、寺の者たちが必死に守り敵は逃げ去り、元康の命も助かったんだ。自害せずに良かった。住職に感謝せずにいられないだろうね。

長篠・設楽原の戦い

長篠合戦図屏風
出典 Wikipedia 長篠合戦図屏風

長篠・設楽原の戦いー家康34歳

このころ家康は織田信長と同盟を組んでいました。

そこへ1575年、武田勝頼率いる1万5千の軍勢が長篠城奪還のために押し寄せ、織田・徳川3万8千の連合軍と相対することとなります。長篠・設楽原の戦いです。

大量の鉄砲導入による戦い

織田・徳川軍は火縄銃を大量に導入し、戦い方に変化をもたらした革新的な戦いです。

馬防柵を張り巡らし、鉄砲隊で応戦するという今までにない戦い方をしたのです。

しかし、火縄銃は工程が多く撃つまでに時間がかかります。狭い場所での戦い。

まごまごしてると武田最強の騎馬隊にやられてしまうのです。

そこで連合軍は列を作り、後方で弾こめをし準備させ、撃ち終わったら空いたところに入って撃つというチームプレーで応戦したのでした。

家康の本陣は最前線ーその時家康はどう戦う?

家康の本陣は最前線。信長の本陣ははるか後方です。

のちに自衛隊員が見て言ったのは、こんな危険な場所で戦いたくないでした。

それほどの危険な場所で家康はいったいどう戦ったのでしょうか。

  1. おとりになって引き寄せる。
  2. 馬防柵の前に出て戦う。
  3. 武田軍の出方を見守る。
なおらん

悩みに悩んで松本潤さんは❸を選んでいました。

家康が選んだのは❶と❷でした。

敵が射程距離に入ってこなければ鉄砲を使う意味がありません。

そこで馬防柵の前に出て敵をおびき寄せるために戦ったのです。

おびき寄せられた武田軍は鉄砲隊の餌食となってしまい、結果長篠城にいた徳川の家臣たちを助けることとなりました。

このような己の危険を顧みない戦い方が、命がけで家臣を救う義理堅い武将と言われるようになり、多くの信頼を得ることになりました。織田信長との同盟もこじれることなく最期まで続いた所以です。

本能寺の変

錦絵 本能寺焼討之図 
出典 Wikipedia 錦絵 本能寺焼討之図 

明智光秀の謀反 本能寺の変ー家康41歳

明智光秀が謀反を起こし、本能寺で信長が亡くなったと報せが届いた時は、家康は信長の招きを受け大阪の堺で遊んでいる時でした。

信長と同盟を結んでいた家康も明智軍に命を狙われることとなります。

なんとか三河へ帰りたい家康たちは伊賀越えを決するのでした。

「伊賀越え」 家康最大の危機・決死の逃避行

共にいた家臣はわずか34人。そもそも招かれてきただけなのでたいした武器も持っていません。

敵の目をかいくぐり険しい山道を通って逃げなければなりません。

家康は途中信長の後を追い、「追腹」を切ると騒いだそうだが、家臣たちに止められたようです。

すぐに自害しようとする家康さんて、強いんだか弱いんだかよくわからない人ね。

脅威の地侍たちーこれを超えるにはどうする?

大名の支配のない伊賀地方。よそ者の侵入を防ぐために集落ごとにいる地侍たちが襲ってきます。

さてこれを越えるために家康はどうしたのでしょうか。

  1. 地侍とひたすら戦う。
  2. 猛スピードで駆け抜ける。
  3. 頭を下げて通してもらう。
なおらん

この問題にはさすがに松本潤さんもお手上げのようでした。

答えは全部やったです。

34人の家臣がそれぞれの得意分野で死力を尽くして殿をお守りしたということです。
(伊賀出身の服部半蔵は地侍との交渉役に、本多忠勝は得意の槍で応戦するなどです。)

桶狭間で今川から独立し、疑心暗鬼で岡崎城に入ってから20余年。

見事なまでに優秀なチーム徳川を作ってきた証でした。徳川家康の人望を表す最大のエピソードです。





まとめ

徳川家康の人生の中での3つの事件を切り取って、家康がどういう決断をしてきたかおわかりいただけたでしょうか。

来年始まる大河ドラマ【どうする家康】では、今回体験したことを松本潤さんがどう受け止め、どう演技に反映されるのかを考えると、私たちの見方もかわってきますね。

これからも今後の出演者発表情報と共に【どうする家康】情報を楽しんでいきたいと思います。

松本潤さんがクランクイン前の意気込みを語ってくれています。

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