服部半蔵って忍者だと思ってたけど、どんなことをした人かはわからないわね。
多くの人は服部半蔵=伊賀忍者と思っているのではないでしょうか?
はい、その認識間違っています!
「忍者ハットリくん」やその他の書籍やマンガなどで、服部半蔵が忍者であると刷り込まれてしまっているのです。
では服部半蔵はどんな人だったのでしょうか。
今回は2023年の大河ドラマ【どうする家康】で山田孝之さんが演じる服部半蔵(正成)について簡単にわかりやすく解説しますね。
【チーム家康、出演者発表!】
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) April 15, 2022
忍者ではないが、忍者の代表
服部半蔵/正成:#山田孝之
先祖が忍びの郷•伊賀出身なので、忍者とよく間違えられる。本人は武士と思っている。自分にプライドが持てず人づきあいが苦手。命ぜられて伊賀忍者を使い、諜報活動をするが時々失敗する。#どうする家康 pic.twitter.com/JATWMU03Nu
どうする山田孝之
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) May 18, 2022
・台本を読んで面白いと思ったところは?
・松本さん演じる“殿”に一言!#山田孝之 #服部半蔵 #どうする家康 pic.twitter.com/X5uVADz3Bt
放送前に読んでおきたい1冊
- 矢吹二朗 1978年『黄金の日日』
- 樋浦勉 1983年『徳川家康』
- 二橋進一 2006年『功名が辻』
- 浜谷健司 2016年『真田丸』
私、なおらんは大河ドラマ視聴歴30年以上の、大河ドラマや歴史ドラマが3度の飯より好きなアラカン主婦です。最初に観た大河ドラマは滝田栄さん主演の『徳川家康』。今までの大河で一番好きなのは『真田丸』です。大河ドラマのおばちゃんと思ってくれたらうれしゅうございます😊
服部半蔵とはどんな人?
服部半蔵とは歴代当主の通称名
服部半蔵とは、戦国時代から江戸時代にかけて徳川氏に仕えた武士です。
代々の歴代当主が通称名として「半蔵」と名乗っていたため、1人のことを指しているわけではありません。
【どうする家康】で山田孝之さんが演じる服部半蔵は二代目服部半蔵の正成(まさなり/まさしげ)のことです。
ん?まさなり?まさしげ?どっちなんじゃーい!
出演者会見動画ではまさしげって言ってるからドラマではまさしげなんだろうね。
服部半蔵=忍者は間違い?
服部半蔵って聞いたらほとんどの人が忍者だと思ってるよ!
それは半分当たっていて半分違うんだよ。
忍者だったのは初代半蔵の保長だけで、2代目以降は忍者ではなかったんだよ。
先祖は代々伊賀国花垣村余野(現・伊賀市)の千賀地谷に居住し、周辺の地を治めてきた一族とされています。
父・保長は伊賀を離れ三河へ移住し、家康のおじいちゃんの代から徳川家に仕えていて、古くからの主従関係があります。
いわゆる「服部半蔵」として広く知られているのは2代目服部半蔵正成のことで、徳川家康(松本潤)に仕えて武功を立てて、8千石の旗本となったれっきとした武士なんです。
服部半蔵正成について
生まれ
二代目服部半蔵正成は、1542年服部保長の五男あるいは六男として三河国伊賀(現愛知県岡崎市伊賀町)に生まれました。
1542年生まれってことは、徳川家康と同い年ってことだね。
家康役の松本潤さんと山田孝之さんも同い年。奇遇ですね。あ、狙ってたのかな(≧▽≦)
徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る
正成も徳川十六神将の一人で、数々の武功によって鬼半蔵の異名がつけられたんだよ。
- 酒井忠次(1527年 – 1596年)
- 本多忠勝(1548年 – 1610年)
- 榊原康政(1548年 – 1606年)
- 井伊直政(1561年 – 1602年)
- 米津常春(1524年 – 1612年)
- 高木清秀(1526年 – 1610年)
- 内藤正成(1528年 – 1602年)
- 大久保忠世(1532年 – 1594年)
- 大久保忠佐(1537年 – 1613年)
- 蜂屋貞次(1539年 – 1564年)または植村家存(家政)(1541年 – 1577年)
- 鳥居元忠(1539年 – 1600年)
- 鳥居忠広(? – 1573年)
- 渡辺守綱(1542年 – 1620年)
- 平岩親吉(1542年 – 1611年)
- 服部正成(1542年 – 1596年)
- 松平康忠(1545年 – 1618年)または松平家忠(1555年 – 1600年)
引用元 Wikipedia
主な武功
- 16歳の時の初陣で夜襲して戦功を立て、徳川家康から盃と持槍をもらっている
- 1563年、三河一向一揆の際、正成は一向宗であったが家康への忠誠を誓い、一揆勢を相手に戦った
- 1570年、姉川の戦いにおいて姉川堤における一番槍の功名を上げた
- 1572年、三方ヶ原の戦いでは先手として大須賀康高の隊に配属され一番槍の功名を上げた
以上のように(もっとあるけど今はこのくらいにしときます^^;)鬼半蔵の名に恥じない大活躍で徳川のために戦ってきたのです。
松平信康事件
1579年、家康の嫡男信康(細田佳央太)が母の築山殿(有村架純)とともに武田家へ内通していると疑いがかけられ、信長の命で自刃に追い込まれます。
築山殿は殺され信康は自害したのですが、正成は信康の介錯を命じられるのです。
正成は、信康があまりにもかわいそすぎて首を打ちかねていました。その様子を見て、家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と正成をより一層評価したと言われています。
伊賀越え
1582年、本能寺の変で織田信長(岡田准一)が明智光秀に討ち取られると、同盟を組んでいた徳川家康にも追手が押し寄せてきます。
信長の招きで堺で遊んでいた家康一行はさあ大変!決死の伊賀越えを決行するんだったね。
供の者も武器も少ない中、それぞれの得意分野を活かしてなんとか三河へ帰る事ができたんだ。
先祖の出が伊賀である正成は商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させることで安全に進むことができました。また、伊勢から船で三河の岡崎まで護衛してもらって九死に一生を得たのです。
同地で味方となった彼らは後に馬廻、伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えるようになり、その指揮を正成が執るようになりました。
こんなことから伊賀忍者と勘違いされてるのかもしれませんね。
山田孝之さんも忍者のようで忍者ではない、その絶妙な塩梅がむずかしい役だって言ってたね。
天正壬午の乱
1582年、本能寺の変のあとの争乱で旧武田領をめぐり、徳川、北条、上杉で争うことになったのが天正壬午の乱です。
正成は家康に従い甲斐へ出陣します。
この時正成は伊賀衆を率いて、甲斐・駿河を結ぶ道を監視したり、津金衆の協力を得て周辺の地を守っていました。
この戦いで正成は次々と城を攻め落とし、家康にも賞賛される活躍を見せたのでした。
鉄砲奉行としての活躍
小牧・長久手の戦いでは伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退します。
小田原征伐でも、 大組百人の組頭として根来衆50人を率いて鉄砲奉行として戦い、この戦で正成は十八町口にて奮戦し、首を十八級挙げたと言われています。
小田原の陣の功により、正成は与力30騎、伊賀同心200人を付けられ8千石を拝領しました。
父親である保長が伊賀出身で忍びの出であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀同心を統率する立場になったと言われています。
伊賀同心との確執
伊賀同心を統率する立場になった正成ですが、伊賀衆は徳川の家臣であって正成の家臣ではないという不満を募らせます。
正成の父である保長が早い時期に伊賀を出て三河に住んだ事や、伊賀における正成の家格は自分達よりも下である事などが理由だったようですね。
のちに彼らは「伊賀同心二百人組」として組織化され江戸城周辺の守備にあたりましたが、正成の死後も伊賀同心二百人組と服部半蔵家との確執は続いたのでした。
正成の最期
服部半蔵正成は1597年に病気で亡くなり江戸麹町清水谷の西念寺に葬られました。
正成が生前に屋敷を構え、伊賀同心たちが江戸城へと通った門は現在も半蔵門として残されています。
服部半蔵とはどんな人? まとめ
今回は【どうする家康】で山田孝之さんが演じる服部半蔵正成について簡単に紹介しました。
多くの人が忍者だと思っている服部半蔵はまぎれもなく武士です。
父・保長のみ忍者だったのですが、徳川に仕え伊賀同心を束ねるようになったので、忍者と思われるようになったようです。
山田孝之さんも忍者のようだけど忍者じゃない絶妙な塩梅を、22~3年役者としてやってきたテクニックをすべて注ぎ込んでやろうと言っています。
絶対におもしろくなるの確実や~ん!
松潤、孝之の同級生タッグも楽しみだね。
個人的には家康のエピソードの中で一番好きな伊賀越えは、服部半蔵が活躍する場です。
山田孝之さんが半蔵はいじられキャラだと言ってるので、どんなシーンになるのか今から楽しみです。
それではみなさん!待ちきれない気持ちを抑え、ちょっとでも登場人物について予習をしておきましょうね😊
以上、大河のおばちゃんなおらんがお届けしました。
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