2023年の大河ドラマ「どうする家康」で出てくる武将について、ちょっとだけ予習しておきたいんだけど、石川数正ってどんな人だったの?
今回は【どうする家康】で松重豊さんが演じる石川数正について簡単に解説しますので、来年の大河の予習として読んでいただけたらと思います。
1983年の『徳川家康』を観た印象では一番見ごたえのある武将だと思います。徳川家康の片腕と言われた男がどうして秀吉の元へ出奔したのか謎を秘めた武将なんです。
- 江原真二郎 1983年『徳川家康』
- 村上幹夫 1988年『武田信玄』
- 誠直也 1966年『秀吉』
- 能裕二 2002年『利家とまつ』
- 大河内浩 2006年『功名が辻』
- 伊藤正之 2016年『真田丸』
- 中村織央 2017年『おんな城主直虎』
【チーム家康、出演者発表!】
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) April 15, 2022
どんな難問も一刀両断 ザ交渉人
石川数正:#松重豊
酒井忠次同様の古参の家臣で、家康が最も信頼する常識人。カミソリのような切れ味鋭い頭脳の持ち主で、遠慮なく正論を進言する。外交役も務め、戦国武将と渡り合う度胸の持ち主。#どうする家康 pic.twitter.com/8hpbEj6FMy
どうする松重豊
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) May 19, 2022
・台本を読んで面白いと思ったところは?
・松本さん演じる“殿”に一言!#松重豊 #石川数正 #どうする家康 pic.twitter.com/XQJXIXxDoR
放送前に読んでおきたい1冊
石川数正ってどんな人?
生まれ
石川数正は1533年、石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)として三河国で誕生しました。
家康が尊敬する武将は源頼朝だって言われてるけど、このこと知ってたのかなぁ。興味あるね。
家康の片腕となる石川数正
家康より10歳年上の数正は、今川の元へ人質として行った時も近侍としてついていきます。
家康からの絶大な信頼を得ている数正は、数々の武将たちとの交渉役を任されるようになっていきます。
ちょうど酒井忠次(大森南朋)と家康(松本潤)の間くらいの年齢で、頼れるお兄さんて感じだったんじゃないかな。
そうだね。過去の大河ドラマを観てると、たしかに家康の石川数正への信頼はそうとうなものだったのがわかるよ。
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今川氏との交渉
1560年の桶狭間の戦いで今川義元(野村萬斎)が信長(岡田准一)に討ち取られるのを知ると、元康(家康)(松本潤)は生まれ故郷の岡崎城への帰還を決行します。
命からがら家臣たちとともに逃げてきたんだったね。
しかし、瀬名(有村架純)や嫡男信康(細田佳央太)は今川の元に置いてきたままです。
どうにか取り戻したい元康は、交渉役に石川数正を抜擢しました。
数正は無事に今川氏真(溝端淳平)との交渉を成立させ、瀬名と信康を取り戻すことができました。
ザ・交渉人としての始まりだね。
清須同盟の立役者
1562年、織田信長と徳川家康による軍事同盟である清須同盟が締結されます。
この同盟は、信長の父信秀(藤岡弘、)と家康の父広忠が元々敵対関係で何度も戦っていたことから、家臣たちの間での遺恨が強くなかなかまとまりませんでした。
ここで白羽の矢がたったのが、また石川数正だったのです。
桶狭間の戦いで名をとどろかせた織田家との交渉を任せられるなんて、家康からの信頼が嬉しくもありまた緊張しただろうね。
この交渉は成立するまでに2年もかかりました。
数正はこの大仕事を無事に成し遂げ、清須同盟が締結されたのです。
家康の片腕としてのイメージがさらにアップしていくことになったんだね。
三河一向一揆
1563年、三河一向一揆では父・康正は家康を裏切って一向一揆に与したが、数正は浄土宗に改宗してまでも家康に付き従いました。
酒井忠次(大森南朋)も本多忠勝(山田裕貴)もそうだけど、身内が裏切っても家康に付き従う忠誠心があるからこそ、徳川の重臣となっていくんだろうね。
それだけ家康に、付き従うだけの魅力があったんだともとれるね。
このあと家老となり酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになります。
信康が元服するとその後見人となりました。
岡崎城代となる
築山殿(有村架純)と信康(細田佳央太)が武田と通じているという報せにより信長(岡田准一)は家康に2人の誅殺を命じます。
家康にとっては試練の時だったね。
結局築山殿は殺され、信康は切腹することになってしまうんだ。
これによって岡崎城主だった信康に代わり、数正が岡崎城代となりました。
城代とは城主に代わり城を管理する人ということです。
小牧・長久手の戦い
1584年、秀吉(ムロツヨシ)との大戦・小牧・長久手の戦いにも参加します。
この戦いにおいて数正は家康に秀吉との和睦を提言したともされています。
本能寺の変のあとの秀吉との交渉も任されていた数正は、秀吉の恐ろしさを身に染みて感じてたんじゃないのかなぁ。
秀吉との交渉を行う中で現状を知る数正が、現状を知らずに主戦論を主張する本多忠勝(山田裕貴)、榊原康政(杉野遥亮)ら家臣団らから孤立してしまったと言われています。
豊臣家へ出奔
1585年11月13日、突如として家康の下から秀吉の下へ出奔してしまいます。
数正が出奔したはっきりとした理由はわかっていません。それゆえ、いろんな説があります。
次に出奔理由に関する説をいくつか検証したいと思います。
理由がはっきりしてないから謎を呼び、ドラマ等でよく取り上げられるんだね。
石川数正の最期
その後秀吉の家臣となり、吉輝と改名し松本城の築城などに尽力したようです。
1593年、享年61歳でした。肥前の国の陣中で亡くなったとされています。
石川数正が豊臣家へ出奔した理由
数正が豊臣家へ出奔した理由は謎に包まれています。
それゆえ数々の理由が考えられ、どれもあり得る可能性があるので、小説やドラマでは書き手によって違ってくるのです。
いくつかの考えられる理由をあげてみます。
秀吉との外交関連説
数正は数々の交渉をまとめてきた「ザ・交渉人」です。豊臣家との交渉という責務も負っていました。
その外交の中でのいくつかの理由があります。
- 秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉の元へ行ったという説
- 恩賞による懐柔に乗せられたとする説
- 対秀吉強硬派である本多忠勝らとの対立で、徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
- 秀吉との間で(秀吉のところに行けば)家康との戦を回避するという密約があったとされる説
①②➂に関しては、これまでの数正の忠義ぶりからして考えにくいよね。ここでは④の説が有力なのではないかと思われます。
松平信康関連説
- 信康の後見人を務めていたため、信康切腹事件を機に家康と不仲になっていたという説。
- 信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
やはり、これまでの数正の家康への忠義を考えると、ピンとこない説ですね。
家康関連説
- 家康と示し合わせ、徳川家の為に犠牲となった形でスパイとして投降したふりをしたという説。
- 軍体制の見直しを図りたいために、軍事機密を知っている数正を出奔させて軍体制を変えざるを得ないようにした説。
家康と数正の仲は絶大な信頼関係があったものと思われます。数々の交渉を任せたのにも表れています。出奔の理由を考えるにあたり、やはり家康が関係していると考えるのが一番しっくりくるのではないでしょうか。
あるいは徳川のために家康にも知らせず、自らを犠牲にして独断で決行したとも考えられるね。
石川数正ってどんな人? まとめ
今回は【どうする家康】で松重豊さんが演じる石川数正について簡単に紹介しました。
「ザ・交渉人」と言われるほど数々の難題をとりまとめ、家康の片腕と言われるほど絶大な信頼を得ていた武将。
そんな男がどうして秀吉の元へ出奔したのか、多くの謎にも包まれています。
そんな数正の心の機微を、松重豊さんのいぶし銀の演技で魅せてくれたらと思います。
個人的には『徳川家康』での江原真二郎さんの数正がいちばんしっくりきました。
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