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【鎌倉殿の13人】木曾義仲についてかんたん解説【頼朝最大のライバル】

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木曾義仲って名前は聞いたことあるけど、どんなことをした人なの?

このように思っているかたは多いのではないでしょうか。

源平合戦の中で物語性に富み、避けては通れない木曾義仲青木崇高)について解説したいと思います。

【鎌倉殿の13人】では初回の最後にちらっと出ていましたが、本格的な登場は第13話からとなります。

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目次

木曽義仲とはどんな人物

源義仲(木曾義仲)像
出典 Wikipedia 源義仲(木曾義仲)像。

木曾義仲の出自について

源(木曽)義仲は河内源氏の一門源義賢の次男として1154年に武蔵国秩父で生まれます。幼名は駒王丸

父・源義賢は頼朝の父・源義朝の弟で、頼朝・義経兄弟とはいとこになります。

生母は遊女であったと伝えられていますが、義仲の前半生についてはほとんど資料がないため断定できるものではありません。

義賢と義朝の対立

義賢と義朝の父・源為義が長男義朝と対立し、義賢を嫡男としたことからより対立が深まり大蔵合戦へとなります。

なおらん

父と嫡男の対立は珍しいことではないんです。朝廷でも起きていたことなのです。



義賢は義朝の長男・義平に討たれて、当時2歳の駒王丸は畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れることとなったのです。

『吾妻鏡』によれば乳父である中原兼遠に抱かれ信濃国木曽谷に逃れ、そこで幼少~青年期を中原兼遠の庇護のもとすくすくと優しき青年へと育ったようです。
木曽で育ったのでこの頃には木曽次郎と名乗っていました。

以仁王の平氏打倒を命じる令旨→挙兵

1180年、以仁王が平家打倒を命じる令旨を発し、源行家が全国の源氏に挙兵を呼びかけに赴きます。

以仁王は源頼政とともに平家に討ち取られ、頼朝は伊豆で平家方の軍勢に石橋山の戦いで大敗を喫することになってしまいました。


頼朝は命からがら安房国へ逃れ立て直しを図ります。



そのころ義仲は挙兵するかどうか悩んでいました。そこへ平家と手を組んだ笠原氏が北信の栗田氏と村山氏を襲うと救援に向かいます(市原合戦)。そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かいますが、2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵することとなるのです。

中原兼遠の娘とされる巴御前も義仲についていき、女でありながら数々の武功をあげ活躍したようです。

尚、義仲の正式な妻ではなく愛妾であったことが『平家物語』や『源平盛衰記』に記されています。

この市原合戦をきっかけに義仲は信濃全土の武士たちを配下に集め、勢力を拡大していったんだね。

快進撃を続ける義仲

義仲の軍勢は横田河原の戦いで勝利し、北陸へと進んでいきます。

1183年には、平維盛ら10万の大軍を倶利伽羅峠の戦いで打ち破り、篠原の戦いで大勝すると、さらに勢力を加えて京を目指すことになります。

入京した義仲は後白河法皇に平家追討を命じられます。このころ朝日将軍(旭将軍)と呼ばれるようになります。

なおらん

このころはまだ後白河法皇とは蜜月の仲だったようです。



後白河法皇との不和

飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、義仲の家人たちは武力はあれど政治力に欠けていたようです

大軍が居座ることによる食糧難と治安回復の遅れや、皇位継承の介入などにより後白河法皇と不仲になっていきます。

信頼を得るために義仲は、西国へ落ち延びた平家討伐に向かいますが、思うような戦果を挙げる事ができません。

そんな中、父の代から仲の悪い頼朝の軍勢である源義経が、数万の兵を率いて鎌倉から京へのぼってきたのです。

義仲にとってはさぞかし脅威だっただろうね。

後白河法皇は義仲から頼朝の方へ鞍替えするのです。

あっちがだめならこっちを利用するなど、さすが日本一の大天狗と言われる御方だけのことはあるね。

後白河法皇の御所を襲撃

手のひら返しをしたような後白河法皇の扱いに不信感を募らせる義仲は、1183年御所である「法住寺殿」を襲撃し、後白河法皇を幽閉してしまいます。

後白河法皇の命をとることまではしなかったが、修復不可能な関係となってしまいました。

木曾義仲の最期

その後義仲は征東大将軍となるのですが、頼朝が送った範頼・義経の軍に宇治川の戦いに敗れ、敗走する中、粟津の戦いで討ち死にとなりました。

従前は『吾妻鏡』などを根拠に、義仲が任官したのは「征夷大将軍」とする説が有力で、『玉葉』に記されている「征東大将軍」説を唱えるのは少数派だったが、『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条に、源頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。それによると、「大将軍」を要求した頼朝に対して、朝廷では検討の末、義仲の任官した「征東大将軍」などを凶例としてしりぞけ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」を吉例として、これを与えることを決定したという。こうして義仲が任官したのは「征東大将軍」だったことが同時代の一級史料で確認できたため、今日ではこちらの説の方が有力となっている。

引用元 Wikipedia

結局、源義賢・義仲親子は最大のライバルであった義朝・頼朝親子に2代にわたって勝つことができなかったんだね。

まとめ

【鎌倉殿の13人】第13話から本格的に出場する木曾義仲についてかんたんに解説してきました。

数々のエピソードに富んだ木曾義仲です。青木崇高さんの演技にも注目が集まるところです。

史実はさておき、三谷脚本ではどんなエピソードがどのように解釈されいかにドラマティックに紡がれていくのか楽しみでなりません。

妄想ふくらませて日曜日をワクワクしながら待ちたいと思います。

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