2023年の大河ドラマ【どうする家康】で松本潤さんが演じる徳川家康については、たくさんの事件やエピソードがあります。
今回はドラマで取り上げられるであろうものについて、紹介したいと思います。
【 #どうする家康 クランクイン!】
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) June 6, 2022
我らが殿・徳川家康役 #松本潤 さん がクランクインしました!
松本さん
「丁寧に作品をつくっていきたい」
磯P
「どうする家康の世界へようこそ!」
▼クランクインメッセージはこちらhttps://t.co/LakPSSSGP6
ぜひ、ドラマを見る前の予習にしていただければと思います。
1543年岡崎城主松平広忠(飯田基祐)の長男として誕生した竹千代(家康)は、幼少の頃から人質として織田家から今川家へと渡る過酷な運命をたどります。
放送前に読んでおきたい1冊
※この記事は上記の雑誌を参考にしてまとめてます。
桶狭間の戦い後
人質として今川家で生活していた元康(後の家康)は名軍師太原雪斎の教育を受け、今川家を支える武将として期待を受けてきました。
それで今川家筆頭家老の関口氏純(渡部篤郎)の娘・瀬名(有村架純)とも結婚できたんだね。
1560年尾張へと出陣した今川義元(野村萬斎)は、元康に大高城への兵糧の搬入を命じました。
無事に搬入を終えると元康は織田方の丸根砦も攻め落とします。
緒戦の喜びもつかの間、義元は桶狭間で織田軍に急襲され、討ち死にしてしまったのです。
大高城で義元討ち死にの報せを受けた元康はこのあとどうしたのでしょうか。
岡崎城へ帰還
元康は戦場を抜け出し岡崎城へと向かいます。
落ち武者狩りなどの危険もある中、岡崎城へ向かう途中大樹寺に寄ります。ここで元康たちは敵兵たちに囲まれてしまうのです。
もはやこれまでと思った元康は先祖の墓の前で自害しようとします。
この時、登誉上人(里見浩太朗)から「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)(戦乱の俗世を平和な浄土に変えよ)と諭されて新たな生き方を決意したのでした。
敵兵たちは寺の僧兵たちの踏ん張りで退散したので、元康は生き延びることができたんだ。
- 10年ぶりの岡崎城への帰還、家康のとった選択肢は?
①今川家に与して織田家と戦う
②織田家に与して今川家と戦う
➂武田氏と通じて独立を狙う
④今川家に従うふりしてこっそり地盤を固める -
④今川家に従うふりをしながら西三河を制圧します。
今川方が岡崎城から退去してからここを拠点とし、織田方の支配地と小競り合いをしながら、西三河を制圧していったのです。
元康が義元公の弔い合戦を早くした方がいいとさんざん言っても氏真(溝端淳平)は動こうとしないので、もはや今川に余力がないと見限って織田家との同盟に進んでいくんだね。
桶狭間の合戦から2年後、織田信長(岡田准一)と清州同盟を結び、1563年には義元からもらった「元」の字を返上して元康から家康と名を改めました。
また、同盟の証として嫡男信康(細田佳央太)と信長の娘・徳姫(五徳・久保史緒里)との婚約も結ばれました。
三河一向一揆
1563年~1564年にかけて家臣団を真っ二つにする三河一向一揆が勃発します。
家康の家臣による兵糧米の強制借り上げが「守護不入」を犯したとして一向門徒の怒りを買ったのが原因です。
家臣団の中には一向宗のものも多数いて、家臣団が真っ二つになってしまいました。
一揆で家康と敵対した主な家臣
- 本多正信(松山ケンイチ)
- 本多正重(正信の弟)
- 渡辺守綱(木村昴)
- 夏目吉信(広次)(甲本雅裕)
- 蜂屋貞次(徳川十六神将)
- 一揆を終息させた家康は敵対した家臣をどうした?
-
家康は一揆に加担した家臣の大部分を無罪放免として帰参を許しました。
一向一揆を終息させた後、家康は一向宗の主な大きな寺を打ち壊したため、僧たちは三河から出ていくことになりました。
今後も刃向かう事が懸念される一向宗徒たちを排除したことによって、三河統一を果たせたのです。
こうして三河をほぼ統一した家康はしばらくの間、西三河を石川数正(松重豊)、東三河を酒井忠次(大森南朋)の二頭体制固めに専念したのです。
→本多正信ってどんな人?簡単解説~なぜ徳川家臣団の嫌われ者に?【どうする家康】
三方ヶ原の戦い
1570年、浜松城に本拠を移した家康でしたが、信玄(阿部寛)と国境を接するようになると両者の間に緊張が高まります。
上洛を決意した信玄は、家康の本拠地浜松城を支援できるルートをすべて遮断し攻めてきます。
家康は籠城を余儀なくされていくのでした。(このころ信長は近畿地方で激戦を強いられていました。)
浜松城へ迫る武田軍はその手前で三方ヶ原へと進路を変更します。守備力が高い浜松城を強攻せず、家康を引きずり出そうという魂胆です。
- 信玄の誘いに家康はどう対応したのでしょうか。
①武田軍を全滅させる
②信長や家臣たちの目が気になるのでほどほどに戦う
➂籠城して戦う
④織田軍と挟撃して武田軍を討つ -
②ほどほどに戦うを選択した家康は大敗北を喫してしまいました。
家康がほどほどに戦うを選択したわけは、いざという時に家康は戦いを避けるという印象を信長に与えかねなかったのと、前哨戦の敗戦によって、三河・遠江の国衆たちが、家康は信玄を恐れていると思い武田方に寝返る可能性があったからです。
百戦錬磨の信玄は徳川軍の動きを察知して戦いを仕掛けてきます。
家康は予想以上の大敗北を喫してしまったのでした。(戒めとして「徳川家康三方ヶ原戦役画像」通称「しかみ像」を書かせたと伝承されています)
この戦いで身を挺して家康を守り死んでいった家臣は数多くいます。
命からがら浜松城へ逃げ込んだ家康は、城門を大きく開かせかがり火をこうこうと焚かせました。(空城の計)
これを見た武田軍は徳川の士気と戦力に衰え無しと判断し、去っていったのです。
信玄は引き上げる途中で発病し亡くなってしまいました。
家康は「我が軍法の師であった」と信玄の死を惜しんだと言われてます。
信康切腹事件
家康の嫡男・信康は武田軍との戦いで勇猛果敢であったため、後に家康が「まことの勇将なり。勝頼たとえ10万の兵をもって対陣するとも恐るるに足らず」と称賛するほど勇敢な武将として育っていたようです。
しかし1579年、わずか21歳で母の築山殿とともに死ぬことになります。
2人が武田と内通しているという理由で、信長による誅殺命令が出たためです。
それには信康の正妻で信長の娘・徳姫(五徳・久保史緒里)の12条による弾劾状が信長の元に届いたためと言われています。
→瀬名(築山殿)について簡単解説~非業の死を遂げた家康の正妻【どうする家康】
弾劾状の内容の一部
- 築山殿が信康との仲を裂こうとしている
- 築山殿と唐人医師・減敬との密通があった
- 信康に旧武田家家臣の娘を側室に勧めた
- 築山殿と信康は武田勝頼と内通している
- 信康の日頃の乱暴狼藉な態度
- 家族の処刑という過酷な命令に対する家康の対応は?
①到底受け入れられないので無視する
②再考するよう信長に説得を試みる
➂信長の命令なので渋々受け入れる
④他の家臣のせいにして身代わりに処分する -
➂命令通りに2人を処刑したのでした。
それ以前に起きた水野信元(寺島進)殺害事件と荒木村重謀反という事件が、この命令を受け入れた要因であるようです。
どちらも信長の敵と内通していたために起きた事件です。
家康が武田家への内通が自分にまで及ぶことを恐れたためと言えます。
1579年8月、築山殿は家康の家臣に殺され、9月には信康も自害しました。
信康の介錯を命じられた服部半蔵(山田孝之)は泣き崩れて果たせず、他の家臣が代わって介錯したようです。
結果、信長との20年にわたる同盟の危機を乗り越え盤石の地位を築くことになったのです。
長篠・設楽原の戦い
武田信玄が死ぬと、徳川から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が一族を連れて徳川方へ再属します。
そして家康は武田から奪還したばかりの長篠城へ配しました。
対武田の最前線に置かれたわけですね。
武田氏の後継者となった勝頼は、長篠城奪還のために反撃を開始します。奥平氏の離反から2年後の1575年4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲しました。
兵の数は奥平方500人、武田方15000人です。
家康方は8000人。武田方の約半分の兵力しかありません。
同盟を結んだ織田に援軍要請をするのですが、何人使者を送っても返事が届きません。
長篠城は落城寸前、緊急事態です。
- 奥平信昌から援軍要請を受けた家康はどう動く?
①信長を待たず今すぐ出陣
②信長を待って一緒に出陣
➂長篠城を見捨て、野田や牛久保で陣を張り迎え撃つ
④織田信長を裏切り武田と和睦 -
②信長を待って一緒に出陣しました。
単独で救援しても分が悪いと判断した家康は信長が来るのを待ちました。
信長も長篠城を守らなければ、家康との同盟が崩壊してしまうと思って腹をくくったのでしょう。
これで織田・徳川同盟軍38000人、武田軍15000人と数の上で優位に立つことができたのです。
連合軍の着陣を知った武田は長篠城の押さえに3000の兵を残して12000の軍勢で設楽原へ進出します。
この戦いで信長は馬防柵を使い鉄砲隊の列を組んで、武田の騎馬隊を撃破したんだね。
徳川の軍勢は前線に陣を敷き、おびき寄せるように勇敢に戦ったんだよ。
一方、長篠城では、酒井忠次(大森南朋)と信長家臣・金森長近らの別動隊4000が奇襲をかけます。
この奇襲も功を奏し長篠・設楽原の戦いで武田軍は大敗北し、滅亡への道を辿ったのでした。
伊賀越え
1982年6月、本能寺で信長が明智光秀(酒向芳)に討ち取られてしまいます。
京の商人茶屋四郎次郎(中村勘九郎)より報せを受けた家康は、明智光秀が大軍を率いていたことを知らされます。
同盟を組んでいた家康にも追っ手がくるのは明白です。
もはや三河へ戻ることはできないと思った家康は自害しようとします。
これを本多忠勝(山田裕貴)ら家臣に諫められて、三河を目指すことになったのです。
京は明智の軍勢がはびこっています。抜ける事はできません。
- 追っ手を避けて三河へ戻るために家康のとったルートとは?
①尾張から美濃、信州へと向かい甲州を抜けて逃げる宇治・近江ルート
②最短距離となる桜峠を抜ける桜峠超えルート
➂御斎峠~伊賀入りルート
④大和ルート -
②最短距離となる桜峠を抜ける桜峠超えルートを選びました。
選んだルートは距離は近いけれども決して安全ではありません。
1579年に信長は天正伊賀の乱で伊賀の土豪を武力制圧しており、家康も落ち武者狩りに遭う恐れがあったからです。
そのため伊賀出身の服部半蔵が政治力を活かし、伊賀の土豪が家康へ味方するように働きかけたのです。
茶屋四郎次郎は先回りして用意してあった銀貨を土豪へ渡し、道案内もしてもらえたんだよ。
こうして無事三河へ戻ることができたのでした。
前出の三河一向一揆、三方ヶ原の戦いと伊賀越えは家康三大危機と言われ波乱万丈な家康の人生の中でも特にピンチな出来事となったのです。
→服部半蔵ってどんな人?簡単解説~伊賀忍者:その認識間違ってます!【どうする家康】
小牧・長久手の戦い後
本能寺の変での信長死後、秀吉(ムロツヨシ)は中国大返しをし明智光秀を討ちます。(山崎の戦い)
その後賤ケ岳の戦いで柴田勝家(吉原光夫)を討ったあと勢力を増していきます。
秀吉が、勝家に味方していた信長の三男・信孝を殺害したことから、信長の次男・信雄との関係は悪化するのです。
家康は信雄を支援するようになり、1584年に秀吉軍と織田・徳川連合軍が衝突します。
これが小牧・長久手の戦いです。
この戦いでは秀吉軍は池田恒興や森長可らが討ち死にするなど完敗を喫しました。
しかし、信雄は秀吉の講和の申し出に応じてしまいます。
家康は戦い続ける名目を失ってしまいました。
家康は戦に勝って戦いに負けたって感じですね。
秀吉は家康にも和睦を申し入れたが、家康は応じません。
その代わり、次男於義丸(後の結城秀康)を養子として秀吉に送りました。
秀吉は人質のつもりですが、家康はあくまでも養子だと主張します。
秀吉は1585年に関白になると家康に対し、さらなる人質を要求します。
この要求に対し家康は浜松城で家臣団と会議を開きました。
- 家康がとった選択は?
①はっきり断って於義丸を見殺しにする
②名目にこだわって養子を出す
➂またしても態度保留
④秀吉に屈する形で人質を送る -
➂態度保留で引っ張り、再三の上洛要請も無視しました。
会議で家臣団は、戦闘では勝利しているのだから、諸国の大名と同じように人質を出すべきではないと意見します。
しかし、露骨に拒絶するのは避けたい家康は秀吉に対抗する姿勢は見せず明確な態度を示さなかったのです。
できるだけ有利な条件で和睦するための引き延ばし作戦だったわけです。
しびれを切らした秀吉は妹の朝日姫を離縁させて、家康に嫁がせたんですね。
しかし、家康は上洛だけは拒否したため、秀吉は朝日姫の見舞いという名目で母である大政所を岡崎に送ったのです。
これ以上の引き延ばしは無益と判断した家康はついに上洛を果たしたのでした。小牧・長久手の戦いからすでに2年の歳月が流れていました。
→石川数正ってどんな人?簡単解説~秀吉へ出奔した謎の武将【どうする家康】
関ケ原の戦い
秀吉が死んで次の年に前田利家も亡くなると、家康はいよいよ天下取りに動きます。
大名同士の縁組は合議の上でと決められていたのに、次々と勝手に政略結婚を推し進めていくのです。
また、豊臣陣営の派閥の仲違いを謀り、武功派をあおって石田三成ら吏僚派を追い詰めていきました。
秀吉の近くで実務を取り仕切っていた石田三成らと、朝鮮半島に出兵して過酷な戦いをしていた福島正則や加藤清正ら武功派の間の対立が深まっていたんだね。
家康は武功派の諸将を懐柔していき決戦に備えていったんです。
1600年7月、五大老の一人上杉景勝に逆心ありとして家康は会津に向け出陣します。
これを知った石田三成は大谷吉継らと共謀して挙兵したのです。
豊臣家恩顧の大名たちが多い中、家康は大坂城下に妻子を残している者たちに対し離脱を認めます。
また、秀頼の安泰を保証することによって、大名たちを結束して反転し三成との決戦に向かいました。
9月1日、家康は江戸を発ち東海道を通って14日に赤坂に着陣します。
しかし、中山道を通ってくる秀忠軍は雨による川の増水に阻まれ、到着まで数日かかる模様です。
- この状況、家康はどう動く?
①小早川などへの調略をせず、全軍で攻めかかる
②清州城に本軍を集結させて機をうかがう
➂赤坂から一部が西進して佐和山城を攻める
④秀忠の中山道軍を待たず、関ケ原へ移動する -
④秀忠軍を待たずに関ケ原の決戦に向かいました。
東軍の勢いと士気の高さを見た家康は、これを最大限に活かそうと関ヶ原への移動を決断しました。
黒田長政が仕掛けていた調略がここで冴えわたり、西軍の多数の武将を寝返らせることに成功し、わずか数時間で勝利を収め天下人への名乗りを上げたのです。
小早川秀秋の寝返りは結果的に大きな勝因となったんですね。
黒田長政すごいですね。さすが名軍師・黒田官兵衛の息子です。
大坂の陣
関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年には征夷大将軍となり江戸幕府を開きます。
こうして武将の頂点に立った家康ですが、後世に徳川を脅かす存在となり得るのは豊臣秀頼でした。
秀頼を上洛させ挨拶させることで両家の立場の逆転を図ろうとしても、淀殿が猛反発しています。
家康は粘り強く機会を待ち、1611年3月に二条城での会見にこぎつけました。
実質、豊臣家と徳川家の地位が逆転したことを示すものとなりましたが、成長した秀頼を見た家康は脅威に感じたのです。
これは豊臣家を潰さなければならないと考えた家康は、大坂城攻めの準備をします。
- 豊臣の力をどう削いでいく?
①家康の孫で秀頼の妻の千姫を使って江戸におびき出して幽閉する
②片桐且元ら豊臣方側近を使い大坂城を開城させる
➂方広寺の鐘銘を幕府への手落ちとして追い詰める
④西国の天下普請が完成した後に包囲する -
➂方広寺の鐘銘は幕府への呪詛と決めつけて追い詰めたのです。
豊臣方の失態を待っていた家康に、良い機会が巡ってきます。
方広寺鐘銘事件です。
秀頼は秀吉の17回忌に向けて、方広寺の再建を進めていました。
家康は鐘銘の中にある「国家安康」「君臣豊楽」の文字を家康の名を切り、豊臣家の繁栄を願ったものだと難くせをつけたのです。
ここで家康は、弁明にきた片桐且元に対しては厳しい態度で接し、淀殿が遣わした大蔵卿局には親しく接し何も心配する必要のないかのような振る舞いをしました。
両様の対応をすることで豊臣方の分断を狙っていたんですね。
豊臣方が混乱する中、1614年10月家康は大坂城攻めを決定します。
1614年11月、大阪冬の陣の始まりです。
難攻不落の大坂城を攻めあぐねていた徳川方は、痺れを切らし出丸の真田丸を攻撃したものの、真田信繫の活躍で敗退してしまいます。
しかし、豊臣方も総勢20万もの徳川方を撃退できるわけもなく、和睦となったのでした。
講和条件
- 大坂城は本丸のみを残し二の丸、三の丸の堀は埋め立てる
- 織田有楽斎と大野治長から人質を出す
- 籠城者の罪は問わない
豊臣方が牢人衆を抱えたままであることなどを理由に、翌1615年4月、家康は再戦を決意します。大阪夏の陣です。
大坂城は和睦後堀が埋められ裸同然です。
籠城戦は不可能となり、豊臣方諸将は出撃せざるを得ません。
真田信繫隊は赤備えで装いを統一し、家康本陣に迫ったもののあと一歩というところで討ち取られてしまいました。
この時も家康は死を覚悟したというのは有名な話ですね。
大坂城が砲撃で焼け落ちていく中、秀頼と淀殿は自害し、豊臣家は滅亡しました。
この後、徳川幕府は盤石な体制となっていったのでした。
徳川家康 大河ドラマ歴代キャスト&作品名
徳川家康は過去25作品で演じられています。
徳川家康 大河ドラマ歴代キャスト | 作品名 |
---|---|
尾上菊蔵(6代目) | 1965年『太閤記』 |
松山政路 | 1966年『天と地と』 |
山村聰 | 1971年『春の坂道』 |
寺尾聰 | 1973年『国盗り物語』 |
児玉清 | 1978年『黄金の日日』 |
フランキー堺 | 1981年『おんな太閤記』 |
滝田栄 | 1983年『徳川家康』 |
津川雅彦 | 1987年『独眼竜政宗』 |
高嶋政宏 | 2002年『利家とまつ』 |
北村和夫 | 2003年『武蔵』 |
西田敏行 | 2006年『功名が辻』 |
坂本恵介 | 2007年『風林火山』 |
松方弘樹 | 2009年『天地人』 |
北大路欣也 | 2011年『江』 |
寺尾聰 | 2014年『軍師官兵衛』 |
内野聖陽 | 2016年『真田丸』 |
阿部サダヲ | 2017年『おんな城主直虎』 |
風間俊介 | 2020年『麒麟がくる』 |
北大路欣也 | 2021年『青天を衝け |
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徳川家康波乱万丈エピソード まとめ
260年続く太平の世を作り上げた徳川家康ですが、その人生はピンチの連続という過酷なエピソード満載なものとなりました。
今回紹介した以外にもたくさんあります。
主なものをまとめただけでも大変な量になってしまいました。
徳川家康波乱万丈エピソードのまとめです。
- 桶狭間の戦い後岡崎城へ帰還
- 三河一向一揆
- 三方ヶ原の戦い
- 信康切腹事件
- 長篠・設楽原の戦い
- 伊賀越え
- 小牧・長久手の戦い
- 関ケ原の戦い
- 大坂の陣
【どうする家康】というタイトルにならい、数々のピンチを家康は家臣とともにどう切り抜けてきたかという視点でまとめました。
どうか来年の大河を見る前に予備知識として、この記事を活用していただけたらと思います。
キャスト一覧
→2023年大河ドラマ「どうする家康」キャスト一覧~チーム家康メンバー集結【随時更新】
おわり
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